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第2回「松村賞」受賞報告(福丸 光詩さん)3/31

福丸 光詩さん/Mr. Koji Fukumaru
(専攻楽器作曲/composition)

[ 2023.04.4 ]

東京音楽大学 大学院

ローム ミュージック ファンデーション奨学生の福丸光詩です。
2022年度より大学院在籍の期間中、RMFの助成を受けて学業に専念できるとは何と幸いだろうかと日々感謝しつつ、作曲と音楽研究に励んでおります。

 

<授賞式の様子(中央左:北爪道夫審査委員長)>

 

 

さて、2022年9月に私は第2回「松村賞」を受賞し、12月には東京文化会館にて表彰式と受賞作の初演を迎えました。

今回はこの内容についてご報告させて頂きたいと思います。

 

「松村賞」とは、戦後日本の音楽界に多大な影響を与えた作曲家 松村禎三(1929-2007)の名を冠した作曲コンクールで、2019年にその第1回が行われました。

審査員には、松村禎三氏の門下であったり関係の親しい高名な5名の作曲家(敬称略;北爪道夫、高橋裕、山本純ノ介、土田英介、菊池幸夫)が名を連ねています。

まだ歴史の浅いコンクールではありますが、今後若い作曲家にとって大きな意味をもつに違いないと思い、第2回が開催された2022年に私も挑戦するに至りました。

 

というわけで、短くではありますが、2022年12月19日(月)東京文化会館小ホールにて行われた表彰式と受賞曲の初演の様子について、写真とともに振り返りたいと思います。

 

<ゲネプロの様子>

 

先に行われた授賞式では審査委員長である北爪道夫先生による講評と、賞状の授与がありました。

私は北爪先生と直接対面したことはなく、大学で何度かすれ違ったことがある程度ですが、北爪先生の音楽とは親しい付き合いであり、作曲を始めた大学1年の頃から何度も聴きスコアを読み技術を学び、私にとって心から敬愛する大先生といったところで、松村賞を機会に作品を見て評価して頂けたことにただ感激するのみでした。

 

コンクールでの受賞について、その後一生良い仕事を続けるという約束を取り交わしたいほど、社会的にはある程度責任が出てくるため慢心は許されない、といった北爪先生の言葉は非常に重たいものでした。

 

初演の演奏にあたって、ヴィブラフォンを會田瑞樹さん、ヴィオラを甲斐史子さん、チェロを山澤慧さんという、日本国内における現代音楽の一流音楽家の御三方に受けもって頂きました。

現代奏法に卓越した技術を持つ御三方のスーパープレーにより、これ以上ないと思える完成度で初演を迎えることができました。

これは作曲家にとって何にも替え難い喜びであり、本番は最高にエキサイトしたひとときでした。

 

<終演後の記念写真(左から會田さん、筆者、山澤さん、甲斐さん)>

 

 

ここからは受賞作品と私の作曲姿勢に関して、こちらもなるべく簡単に紹介させて頂きます。

 

受賞作品は「フィグレス II 」と題した三重奏曲で、ヴィブラフォン、ヴィオラ、チェロという編成の作品です。

タイトルの”Figless”とは「実の無いイチジクの木(Fig+less)」という意味合いの言葉であり、新約聖書の中のマタイによる福音書21章18-19節に由来しています。

 

少しだけ作品の中身について紹介するために、該当箇所の聖句を引用したいと思います。

 

21:18

さて、朝早くに都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。

 

21:19

道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかには何もなかった。

それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。

すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

 

空腹を覚えたというイエスの人間性と、自然現象に対しても力を有するイエスの神性とが端的に示された場面です。

さらにこの箇所を文脈で捉えると、当時のユダヤ教の状況と、こののちイスラエルに起こる出来事が、象徴的にこのイチジクの木に投影されたということが分かります。

詳細は紙面の制約上割愛しますが、少なくとも単にイエスが空腹で不機嫌になったということではないようです。

作品の中で、上記のような内容が音楽に翻案あるいは描写されるということは意図されておりませんが、生い茂る葉や枯れた木が騒がしく音をたてるような楽想はここから着想を得ています。

 

前作「フィグレスI」はマリンバ独奏のために書かれ、木製鍵盤の響きがその感をより引き出していますが、今作においてはその作曲過程で発見されたいくつかのアイデアを拡張・発展させるという目的で書かれています。

しかし音楽の核となっているのはそういった外形の興味ではなく、引用した聖書箇所の出来事のように、内的実質の大切さを逆説的に描くという部分にあります。

 

私は大学学部時代の後半以降、自身の創作においてアカデミックな領域は学生のうちにある程度追究するとして、その先のこと、例えば作曲家の内実(音楽理念や精神とも言えるもの)が音楽の強度を確かなものにするのならば、自分の作家としてのアイデンティティーは何であるか、ということについて深く考えるようになりました。

もっと簡単に言えば「自分は何のために作曲をするのか」という問題です。

 

これは作曲に限らず、あらゆる分野の創作において言えることでありますが、私はこの問いについて回答を保留したり、芸術音楽を単なる知的好奇心の娯楽としたくなかったようで、私の人生そのもの、つまり私の人生観・世界観が音楽に反映されたときに、はじめて作曲する意味を持つのだという結論に至りました。

うまく言葉に表せずもどかしい所でありますが、「フィグレスI / II」でも問題になったように、内的実質は技術と同等かそれ以上に重要で、私にとってそれ=内実とは「信仰」であり、その表現形式が「音楽」と言えます。

そういうわけで、私の創作テーマは「信仰と音楽」であり、音楽研究の関心はもっぱらキリスト教神学と芸術との関係にあります。

 

 

本レポートは私の中間レポートに当たりますが、最終レポートではこの点についての学びの一端を改めてご紹介できたらいいなと考えております。